あの月に向かって打て



Hesitation


最近スイミングに凝っている。
実は私は泳ぎが苦手で、ちょっと前までは25mを泳ぎきるのに必死だった。

プールに行き始めの頃は、子供たちが泳ぐファミリーコースでビート板を使いながらバチャバチャ泳いでいた。非常に格好の悪い姿である。それでも私は一生懸命練習した。

そもそも泳ぎを始めたキッカケは、もし将来自分に子供ができてどこかに泳ぎに行った時、一緒に遊べないからである。そんな事を考えて泳ぎ始めた。
最初は苦労の連続である。水は飲むし、息が続かない。それでも私は通い続けた。

その甲斐もあってか今は、平泳ぎなら1000mは泳げるようになった。もちろんそれはプールでの話で海での泳ぎになれば別の話だが。

ある程度泳げるようになったからか、人と話す時もプールの話をするようになった。時には人を誘ったりもする。
しかし返ってくる返事はいつも紋切り型である。

「水着姿になるのは恥ずかしい」
「水着姿を見せられない」

Hesitation、いわゆる「ためらい」というやつだ。
本来泳ぐのは、自分への運動であって人に水着姿を見せるものではない。
ましてや人はそんな自分の姿などを見ていない。
ただ、一心不乱に泳ぐのだ。
それが楽しいのだ。

スポーツとは”上手い””下手”を選ばない。
ただ、プレイをしていて”楽しい!”と思えるか、それだけである。

泳げない人がいる、それは当然だ。
野球を出来ない人がいる、それも当然だ。

水着姿を見せられない、野球が上手くないからできない。
問題はそこではない。
一度やってみて、その中に”面白さ”を見出すことが大切だと思う。

どうも日本人の感情の中には、”恥”と言った概念が大きすぎるように思う。
かつてルース=ベネディクトの著書で『菊と刀』があった。
これは日本人の”恥”の文化を表した本だが、最近の”恥”というものの概念が変わってきているように思う。

例えば、泳げないことを”恥”とするのは理解できるが、
泳ぐ前の姿を”恥”とするのはいささか違うように思える。
つまり体裁に気をつかっているだけで、本質の”恥”に焦点を合わせていないのである。

かと言って私の身体も美しいラインをしているわけではない。
太りだしてきたので、家族にもバカにされている体たらくだ。
しかし私は泳ぐ時に、そんな事を気にもしない。
私の目的はその姿を見せることではなく、泳げるようになるためである。
今の姿でパリコレに出るのであれば、それはもうとんでもない”大恥”だが。。。

一度、Hesitationを捨ててみてはどうだろうか。
本当の”恥”とはどういうものか、考えてみる。
もちろんこれには人それぞれの価値観があるので、万人に共通ではないが、
Hesitationが邪魔をして何かのアクションを妨げるのであれば、”恥”と言うものは何かということを考え直して見るのもいいかもしれない。

以上、泳ぎながら考えてみた。

泳いでいると色んな事を考えるようになる。
水に浮きながら、自分を無にしながら考えられるようになる。

泳げないのであれば泳いでみよう。
サッカーが下手なのであれば蹴ってみよう。
野球が下手なのであれば投げてみよう。

Hesitationは蚊帳の外に。。。
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by mau46 | 2006-02-10 13:18 | スポーツ
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