最近、やむなしにスポーツ番組を地上波で見る機会が多いのだが、非常に不快感を持っている。
何故いつも“感動”を前面に押し出そうとするのか。
そして、何故視聴者もそれにつられているのか。
私がいつも考えるのは、“感動”と言うものは与えられるものではない。見ているこちらが勝手にするものであろう。
例えば、今回の亀田の茶番。
これはテレビ局の意向もふんだんに込められた、最悪の芝居だった。
これに感動した人々のなんとチープな事か・・・
それは何故か?
我々がスポーツで感動するのは、
「スポーツがあって感動が生まれる。」
事である。
つまり“感動”というものはスポーツの副産物なのである。誰も“感動”するためにスポーツを見ない。
しかし、最近の地上波スポーツ番組は、
「感動させるプロセスとしてスポーツがある。」
という構図がある。
つまり、今回の亀田茶番では、番組終了間際に見せた“親子愛”のシーンを見せたいがためにボクシングの試合があったのである。
そしてまんまと乗せられた視聴者が多くいた。
そしてもう一つ思うことがある。
テレビのコメンテーターや、スポーツをやっていない、または知らない人がよく言うのだが、
「一生懸命な姿に感動した。」
と言うことだ。日本人は、目の前に一生懸命する人を見れば冷たい目をするくせに、テレビの演出になれば簡単に“感動”する。
しかし考えて欲しい。試合にのぞむに当たって、一生懸命闘わない選手がどこにいるのか?
一生懸命プレーするのは最低限の話であって、勝利を奪取するのは“それ以上の力”が必要なのである。
そんな基本的な事にも盲目になった人々を見ていると、日本人であることが恥ずかしくなる。
なんと価値観の低い人間の多いことか。
もう一度スポーツへの見る目を見つめ直して欲しい。
選手は視聴者に感動してもらうためにプレーしていません。
素晴らしいプレーを見てもらうためにプレーしているのです。
一生懸命な姿を見てもらいたいと思っていません。
一生懸命は当然の姿だからです。
勝つ姿を見てもらいたいのです。
日本人の見る目が腐りかけている。「なんとかせねば」という気持ちと、「もう手遅れ」という気持ちが混在している。
最近はもう諦めている。